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吉田新田は、現在の大岡川と中村川、JR根岸線で囲まれた範囲の、埋立て当時の名称。

かつては入江だったが、大商人吉田勘兵衛らによって埋立て、開発され、田園地帯と生まれ変わった。

吉田新田の範囲
(オレンジトカゲ)

1859(安政6)年の横浜開港以後、開港場の隣接地として、伊勢佐木町に代表される繁華街・町場の形成が進み、関所を境に内陸側が「関外」と総称されるようになった。

横浜市立の小学校に通えば、必ず教えられることの一つ。

以下吉田新田開拓史。

開拓者吉田勘兵衛(良信)は、1611(慶長16)年に摂津国(現在の大阪府北中部から兵庫県南東部)に生まれる。1634(寛永11)年に江戸へ出て、本材木町に居住し木材・石材業を営んだ。

吉田勘兵衛は幼い頃から仏心に厚く深く日蓮宗に帰依する。商才に富み、江戸城普請工事へ参加するなどして成功する。

吉田勘兵衛は遠浅である入海の開拓について、幕府(当時の老中;酒井雅楽守忠清、松平伊豆守信綱)から許可を得、1656(明暦2)年7月17日に着手する。
(日蓮宗栄玉山常清寺)

1657(明暦3)年5月に洪水が起き、潮除堤崩壊により一時撤退する。

少し戻るが同年、正月18日に、振袖火事と呼ばれる江戸大火があった。本郷丸山の日蓮宗本妙寺から出火し、江戸の町の大半及び江戸城本丸、二の丸、天守閣も焼け落ちた。これにより木材の価格が急騰し、勘兵衛は巨利を得た。
(日蓮宗栄玉山常清寺)

1659(万治2)年2月11日には追願が許され再度工事に着手する。「この時は砂村新左衛門が工事に当たり、吉田勘兵衛」が資金を受け持った。
(常清寺縁起)

やがて干拓は進み、1662(寛文2)年には新田耕地の小作証文が出されるまでになる。

資料が残されておらず、具体的な工事の過程は不明だが、標準の手順としては、堤を造り、用水路の整備、土砂による埋立て、耕地化というものである。

利用される土砂は、太田村の天神山(長さ 70間 高さ 25間)、
(Enjoy! YOKOHAMA -横浜ブログ-)
(横浜市西区)
石川中村の大丸山(長さ 99間 高さ 25間)、
(Hi Hi)
横浜村の宗閑(州干)島(長さ 160間 幅 40間)
(ミスティの虹いろ日記)
から採取されたと言われる。

「新田と海岸との間には、塩除提(長さ1033間、提敷13間、高さ3間)を築き、大岡川を両岸に延長」する。「新田の北岸の河川はそのまま大岡川、南側を中村川と呼」んだ。

(日蓮宗栄玉山常清寺)

中村川の河口付近は直接海と繋がらず、陸から長く伸びた宗閑(州干)島があった。そこでそれを陸から断ち切るように掘り、その部分を堀川と呼んだ。
(濱之心のブログ)

宗閑(州干)島は、陸から長く伸びた砂浜だったが、陸から断ち切るように川を掘られ、堀川と呼ばれるようになる。中村川は、河口付近では堀川に変わるようになった。

その他「新川を(幅12間、深さ3間)作り、河岸提(右側約1700間、左側約1300間、幅各々1間)(今の吉田町から蓬莱町の辺)
(独り言と晩酌の日々)
をめぐらし、新田中央に大岡川の水を引き用水とし中川(幅5間、深さ2間)と称し引入口にしゃくはち樋(高さ1間半、幅3間半)川下にまねき戸樋(高さ1間、幅5間)を設け、その間埋樋をおき河岸提には用水戸樋、塩除提には二ヶ所の大水門くるま樋(高さ2間、幅3間)が設けられ、新田は中川を中心に南北に分け、さらに六区画し川口から順次、南(北)一つ目、六つ目と称した。」
(日蓮宗栄玉山常清寺)

この新川は吉田川(明治29年に延長され、新吉田川となる)と呼ばれ、船便用に利用されたが、後に需要が途絶えて埋められ、現在の「大通り公園」になる。同公園周辺の駿河橋、坂東橋、横浜橋、長島橋といった橋の名称はその名残である。
(濱之心のブログ)

完成後も堤防は度々波に破られ、「修繕には中々骨が折れ」た。「塩水を防ぐ為には堤下と言って、堤防と田地の間へ一筋の沼を残しておいて、押し込んできた海水をここへ留めるようにした」。
(濱之心のブログ)

砂村新左衛門は、新田新提に松6000本を植えて、堤の補強策とともに将来の用水として役立たせようとする。
(日蓮宗栄玉山常清寺)

入海の干拓・埋立・耕地化という開発事業には、多額の資金が必要であり、吉田勘兵衛はその半分、残りは「内川新田(横須賀市)・砂村新田(江東区)の開発者である砂村新左衛門、箱根用水の開削者である友野与右衛門、あるいは坂本七兵衛・養庵といった人物たちが、資金を拠出した」ようである。
南吉田町内会

1662~1664(寛文2~4)年の間に拠出金額に基き、耕地の分配が行われ、1669(寛文9)年より新田内の土地売買が行われ、1675(延宝3)年には、新田全体が吉田勘兵衛の所有地となる。

吉田勘兵衛は新田開発に8038両を費やしたと言われるが、
(日蓮宗栄玉山常清寺)
この時期の土地取得額を合わせたものかもしれない。

1667(寛文7)年にはほぼ完成し、野毛新田と命名、1669(寛文9)年には4代将軍家綱によって吉田新田と命名され、吉田勘兵衛は名字帯刀を許された。
(散歩のついでに・・・)

ほぼ完成した頃の実測図
(独り言と晩酌の友日記)

1665(寛文5)年に、南七つ目に宮地400坪が確保され、1673(寛文13)年9月に吉田勘兵衛が山王権現の社殿(今の日枝神社、お三の宮)を建てる。同社には「同年勘兵衛により奉納された獅子狗一対や、翌(延宝2)年に勘兵衛の縁者と思われる人々によって寄進された水鉢などが残され」ている。
南吉田町内会
(日蓮宗栄玉山常清寺)

また山王権現と同時にその境内地に稲荷大明神(稲荷神社)を建てて宇迦御魂神を祀り、さらに栄玉山常清寺を建立している。
(日蓮宗栄玉山常清寺)

1674(延宝2)年の検地により、村高1038石3斗4升7合、面積116町3反5畝8歩(=約35万坪)と定められる。約8割りを田が占め新田内に居住する農民は81名、周辺に居住し、新田内にて耕作する農民は117名となる。新田内居住者の多くは、「横浜村・石川中村・堀之内村・蒔田村・太田村・野毛村(野毛浦)といった周辺各村から移住してきたものと思われ」る。
南吉田町内会

収穫高は約1500俵(1俵4斗入りの換算で600石)に達した。

また勘兵衛は、1676(延宝四)年に、新田守護のため、 身延山第三十一世一円院日脱上人を開山として北一つ目の地に菩提寺である日蓮宗常清寺を建立している。
(日蓮宗栄玉山常清寺)
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