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日技神社を改築するとの計画がおこり、1920(大正9)年11月23日、日枝・稲荷両神社の本殿内陣を調べていると、両神社の神体の下から『大乗経』の木箱が発見された。

初代吉田勘兵衛により埋められたものだとされるが、二度目の新田開発前に成功を祈って埋めたものか、開拓後に保護を求めて埋めたものなのか、筆者は現在調査中である。
1659(万治2)年、「再度の埋立てを(日蓮宗総本山)身延山に祈願、その結願の日に勘兵衛自ら二部の大乗経を書写し、それを埋納した」との説もある。
(南吉田町町内会)
(Enjoy! YOKOHAMA -横浜ブログ-)

吉田家は1927(昭和2)年に『吉田勘兵衛事績』(石原純編)を刊行し、発見された『大乗経』は、おさんの人柱伝説の元であり、人柱自体誤伝に過ぎないという事を書いている。

江戸時代までは少なからず立っていた人柱は、明治時代前半に消滅し、過去の人柱の記録にまで、触れてはいけない話という雰囲気が広まっていったようだ。
維新直後には人々には受け入れられないものとされていたのが朝日新聞の記事よりわかる。
(人柱の話)

ただ、犠牲としての人柱は明治初期まで続いたらしい。
明治6年には、「当時の異人相手のラシャメンが産み落と」され、ある程度成長して不良になり、逮捕された混血の少年4人が、弁天橋の前の穴に生き埋めにされたとう話がある。
(Blog鬼火~日々の迷走)

(懲罰や差別による虐殺、また)犠牲としての人柱は人々には注目されなくなってきた。
ただ明治から終戦までに行われた様々な大工事に伴い、大勢の人々が強制労働に駆り出され、事故により死んだ者が"人柱"として埋められたと言われる。
事故死だけではなく、他の労働者への見せしめとしての虐殺、弱った者の整理、また実際に犠牲としての人柱が立ったという話もある。

話題が逸れるので別記事に。

明治以降の人柱
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