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ビールは日本人にとって大分新しい飲み物である。
「日本人が初めてビールを飲んだのは、1724年のこと」。
(探検コム)
オランダ人が持ち込み、幕府役人や蘭学者が飲んだという。
(World Beer Hiroshima)
「国内で初めてビールを醸造したのは、幕末の化学者、川本幸民(1810~1871)だ」とされている。
(探検コム)
「日本人が初めてビールを飲んだのは、1724年のこと」。
(探検コム)
オランダ人が持ち込み、幕府役人や蘭学者が飲んだという。
(World Beer Hiroshima)
「国内で初めてビールを醸造したのは、幕末の化学者、川本幸民(1810~1871)だ」とされている。
(探検コム)
<国産ビール工場の原点>
1869(明治2)年、日本初のビール醸造所ができる。
ドイツ人のローゼンフェルトと技師ウィーガント(ヴィーガント)が横浜山手46番に「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」を創設した。
翌(1870、明治3)年、「ノルウェー生まれのアメリカ人、ウィリアム・コープランド(William Copeland:1834-1902)が『スプリング・バレー・ブルワリー』」を横浜山手123番(天沼)に建てた。
「コープランドは元の名をヨハン・マルティニウス・トーレセン」という。
1834(天保5)年にノルウェーのアウスト・アグデルで生まれる。
「成人した後、当時の多くのノルウェー人と同様、新天地を求めて米国に移住。」
「祖国ノルウェーを発つ前、彼はアレンダール・ブルワリーで実際にビール醸造技術を」学んだ。
(郵便学者・内藤陽介のブログ)
(ビール醸造の始まり)
この場所が選ばれたのは、「醸造に適した水が豊富に湧いていた」から。
キリン園公園に隣接する北方小学校の敷地内には、「ビール井戸」と呼ばれる井戸が残っている。
山手の工場であろう写真
(Yokohama Beer Magazine)
スプリング・バレー社は設立当初、ビールを外国人向けに醸造していた。
(社団法人横浜中法人会)
ジャパン・ヨコハマ社は創業5年ほどで閉鎖し、「同社の醸造技師ウィーガント」が、「山手68番のヘフト・ブリュワリーを継承し、1874(明治8)年「バヴァリア・ブリュワリー」の経営を始める。
競争が激化し、1876(または1875、明治9 or 10)年にはスプリング・バレー社がババリア・ブルワリー社を吸収し、「コープランドとウィーガントによる商事組合『コープランド・アンド・ヴィーガント商会』が結成される。」
(探検コム)
(社団法人横浜中法人会)
(郵便学者・内藤陽介のブログ)
(中区役所)
スプリング・バレー社が強かったのは、天沼に硬水が湧いていたためだと言われている。
(中区役所)
ビールの鋳造はウィーガントが指揮し、「ババリアン・ビール」という製品を販売する。
「ババリア(Bavaria)とは、ドイツ南部のバイエルン(Bayern 州都はミュンヘン)地方の英語名で、大麦、小麦、ホップの産地であると同時に、ビール醸造の本場である。」
(ウィーガントは「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」の創設者だが、スプリング・バレー社での鋳造指揮は、同社への吸収後だと思われる)
「スプリング・バレー・ブルワリーで作られたビールは、山手123番一角の地名をとって『天沼ビアザケ』とも呼ばれたという。」
(豊田芳州のTheme)
1881(明治14)年には、日本人の好みに合わせたビールが作られ、販売されている。
(キリンビール)
品質についての評判は良く、全国から国外にまで販路を広げていたが、経営自体はあまりうまく行かなかった。
コープランドとウィーガントはよく対立し、やがて裁判になった。
その結果、「商事組合は解散となり、工場は競売にかけられ」るが、財産を持っていたコープランドが自ら買取、経営を再開する。
しかし結局上手くいかず、1884(明治17)年に一時閉鎖する。
(社団法人横浜中法人会)
(郵便学者・内藤陽介のブログ)
1885(明治18)年、同社を「三菱の岩崎弥之助」、「イギリスのビール会社バターフィールド社のジェームス・ドッズ」、「タルボット(William Henry Talbot)やアボット(Edgar Abbott)」らが助ける。彼等は「共同出資して、」新会社「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」を建てる。これが現在のキリンビールの前身。
同社は日本ではなく香港に登記している。
設立当初からドイツの味にこだわり、技師はドイツ人に限定、また原料や設備、瓶に至るまでドイツ製のものに限定されていた。
原材料は全て、横浜で商売をしていたカール・ローデ商会を通して購入している。
欲1886(明治19)年、「ドイツ式醸造法に欠かせない製氷機を導入するための増資を契機に、輸入ビールへの対抗をもくろむ」渋沢栄一、後藤象二郎が参加。同時に、岩崎彌之助、荘田平五郎、高田慎三、益田孝、大倉喜八郎、トーマス・ブレーク・グラバー(T.B.Glover)等が加わっている。
(探検コム)
(郵便学者・内藤陽介のブログ)
(中区役所)
(キリンホールディングス1)
(キリンホールディングス2)
(キリンホールディングス3)
コープランドは同社の経営から離れ、「同社に隣接してスプリング・ヴァレー・ガーデンなるビアガーデンを開いたが」、繁盛しなかったようだ。
(中区役所)
その後もコープランド自身のビジネスはうまくいかず、一度海外に出、1902(明治35)年に帰ってきた際に、リューマチが悪化し、息を引き取る。到着より前に病を患っていたらしい。
葬儀はジャパン・ブルワリー社が取り仕切った。
(キリンホールディングス)
(横浜が発祥地巡り)
新しくなったジャパン・ブルワリー社は1888(明治21)年5月には、「キリンビール」をブランド化する。創業者磯野計(はかる)と契約し、「『明治屋』を販売総代理店として日本全国に販売を開始した。」
(重役会での決定は5月7日)
発売当初、「三菱の荘田平五郎の発案で」麒麟をラベルに使用していたが、1889(明治22)年には、「グラバーの提案で」変更、現在の麒麟のイラストになる。
同年、瓶の購入元を、国内の品川硝子製造所に切り替える。理由は不明だが、輸送コストを削減したのではないかと考えられる。
(キリンホールディングス1)
(キリンホールディングス2)
(キリンホールディングス3)
工場の設備投資は継続し、1901(明治34)年には、醸造機械全般の更新が行われている。
(キリンホールディングス)
当時は日清戦争が終わり、軍事費調達のため、酒税が増額されていた。
(ビール醸造組合;日本のビール・発泡酒・新ジャンルと税)
1901(明治34)年には、麦酒税が導入され、中小の醸造業者が業務停止に追い込まれていた。
大手の各社も競争を回避するため、合併を繰返し、「札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒の3社合同による大日本麦酒株式会社が」誕生する。
ジャパン・ブルワリー社も、大日本麦酒株式会社より合併の提案を受けたが、独立を守った。
1907(明治40)年、三菱財閥(三菱合資社長岩崎久彌等)と明治屋(当時社長米井源治郎)が共同出資し、1885年に設立した「ジャパン・ブルワリー」を、組織・事業・工場をまとめて買収する。
同年2月23日、「麒麟麦酒株式会社」と名付けて改めて設立した。
三菱会社からは人材も提供している。
(郵便学者・内藤陽介のブログ)
(キリンホールディングス)
1912(明治45)年には、コルク栓に替わり、王冠栓が導入された。
(キリンホールディングス)
同社は品質についての高い評価を維持していた。
第一次世界大戦による好景気、欧州のビール会社の塔さんによる東南アジア方面への輸出拡大等により、同社も成長し、各工場新築・整備を進める。
1918(大正7)年5月には、山手に製麦工場を設立する。
(キリンホールディングス)
1923(大正12)年9月1日の関東大震災により、山手工場を失ってしまう。
(社団法人横浜中法人会)
同社は生麦の新工場設立に着手した。
跡地は横浜市に売却され、北方小学校とキリン園公園となる。
(vol.31 横浜 山手)
キリンビール工場生麦
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