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おさんの人柱についても、語り継がれるにつれ幾通りか生まれてきた。
ここでは、それぞれを簡単に紹介したい。
ここでは、それぞれを簡単に紹介したい。
①日枝神社の現宮司、角井瑞氏の話によるもの。
おさんは駿河の或る藩の武士の家に生まれた。
やがて父は浪人となり、江戸に越して寺子屋を開いた。
しかし、何度か起こった江戸大火の一つに巻き込まれ、おさんの両親は亡くなってしまった。
生前父より、地元に許嫁がいるという話を聞いていた。
名は関谷陽之進といい、おさんは早速探してみることにする。
ところがいざ訪ねてみると、彼は種田五郎三郎という者に殺されていた。
おさんは泣きはするものの、仇討を心に決める。
やがて種田五郎三郎が身延山いると耳にし、そこに向かう。
しかし、見つけることはできなかった。
同じ頃、吉田勘兵衛は二度目の挑戦となる新田開拓の成功を願い、身延山に7年目のお参りに来ていた。
そこでおさんと知り合い、同乗した吉田勘兵衛は、共に江戸に行き、自分のもとで働くようすすめた。
江戸なら種田五郎三郎の情報も手に入れられるかもしれないとのこと。
おさんは吉田家の下女として働きながら、情報を収集し、ついに種田五郎三郎を見つけ、仇を討つことに成功する。
仇討後、吉田勘兵衛の新田開発の事業を見ており、堤防決壊による一時撤退のことも知っていたおさんは、自ら人柱になる事を決心し、名乗り出る。
吉田勘兵衛は一度止めようとするが、あまりにも熱心なのに心を動かされ、やがておさんは人柱に立ったという。
(有鄰)
おさんの両親を奪った江戸大火だが、吉田新田の開拓記録と照らし合わせると、1657(明暦3)年の振袖火事(明歴の大火)だと考えられないだろうか。
1641(寛永18)年に桶町火事もあったが、これでは空いた時間が少々大きいように思える。
下記④の情報からも、振袖火事の時期だろうといえる。
振袖火事で、材木商吉田勘兵衛は巨利を得、二度目の干拓の資金として充てている。
(吉田新田)
(いちらん屋)
②1936(昭和11)年「に刊行された『横浜旧吉田新田の研究』(石野瑛著)に」よるもの。
日蓮宗に帰依していた吉田勘兵衛は、身延山久遠寺に年詣でに行っていた。
或る年或る日、駿河路を通り掛かったところ、若い女が男に襲われそうなのを見る。
吉田勘兵衛は共にいた下男達と彼女を救った。
その女の名は「おさん」といい、その日依頼下女として仕えることになった。
おさんは新田開発の最初の失敗を知り、勘兵衛に同乗し、二度目の開発の際に、自ら人柱になる事を名乗り出た。
吉田勘兵衛のしなくてもよいとの説得にも関わらず彼女は人柱として立ち、難工事が成功したという。
(南吉田町町内会)
③1930(昭和5)年11月に刊行された『横浜の伝説とロ碑』中区磯子区篇(栗原清二著)によるもの。
恐らく二度目の開発の際、吉田勘兵衛は海側に波除の堤防を築いたが、雨風あるごとに流されてしまう。
そのうちに、人柱が必要だと噂されるようになる。
吉田勘兵衛のもとで長く働いていた下女おさんは、自ら人柱になると名乗り出た。
吉田勘兵衛は当初反対したが、おさんの熱意に負け、決意したという。
その後工事は順調に進み、新田は完成した。
(南吉田町町内会)
これまでの人柱は全て生き埋めになっただろうと予想されるが、海に身を投じたという話もある。
以下。
④政略結婚と身投げ
おさんは家族と江戸で暮らしていたが、明暦の大火により両親・兄弟と死別し、一人になってしまう。
また不本意な政略結婚に巻き込まれそうになり、逃げて吉田勘兵衛のもとに世話になる。
吉田勘兵衛の新田開発が難航しているのを見て、おさんは人柱になると申し出る。
吉田勘兵衛は反対するが、おさんは自害さえしようとしたので、ついに受け入れる。
おさんは大海に身を投じ、以来開拓は順調にすすんだという。
(Walk On,Leave It Behind)
おさんは駿河の或る藩の武士の家に生まれた。
やがて父は浪人となり、江戸に越して寺子屋を開いた。
しかし、何度か起こった江戸大火の一つに巻き込まれ、おさんの両親は亡くなってしまった。
生前父より、地元に許嫁がいるという話を聞いていた。
名は関谷陽之進といい、おさんは早速探してみることにする。
ところがいざ訪ねてみると、彼は種田五郎三郎という者に殺されていた。
おさんは泣きはするものの、仇討を心に決める。
やがて種田五郎三郎が身延山いると耳にし、そこに向かう。
しかし、見つけることはできなかった。
同じ頃、吉田勘兵衛は二度目の挑戦となる新田開拓の成功を願い、身延山に7年目のお参りに来ていた。
そこでおさんと知り合い、同乗した吉田勘兵衛は、共に江戸に行き、自分のもとで働くようすすめた。
江戸なら種田五郎三郎の情報も手に入れられるかもしれないとのこと。
おさんは吉田家の下女として働きながら、情報を収集し、ついに種田五郎三郎を見つけ、仇を討つことに成功する。
仇討後、吉田勘兵衛の新田開発の事業を見ており、堤防決壊による一時撤退のことも知っていたおさんは、自ら人柱になる事を決心し、名乗り出る。
吉田勘兵衛は一度止めようとするが、あまりにも熱心なのに心を動かされ、やがておさんは人柱に立ったという。
(有鄰)
おさんの両親を奪った江戸大火だが、吉田新田の開拓記録と照らし合わせると、1657(明暦3)年の振袖火事(明歴の大火)だと考えられないだろうか。
1641(寛永18)年に桶町火事もあったが、これでは空いた時間が少々大きいように思える。
下記④の情報からも、振袖火事の時期だろうといえる。
振袖火事で、材木商吉田勘兵衛は巨利を得、二度目の干拓の資金として充てている。
(吉田新田)
(いちらん屋)
②1936(昭和11)年「に刊行された『横浜旧吉田新田の研究』(石野瑛著)に」よるもの。
日蓮宗に帰依していた吉田勘兵衛は、身延山久遠寺に年詣でに行っていた。
或る年或る日、駿河路を通り掛かったところ、若い女が男に襲われそうなのを見る。
吉田勘兵衛は共にいた下男達と彼女を救った。
その女の名は「おさん」といい、その日依頼下女として仕えることになった。
おさんは新田開発の最初の失敗を知り、勘兵衛に同乗し、二度目の開発の際に、自ら人柱になる事を名乗り出た。
吉田勘兵衛のしなくてもよいとの説得にも関わらず彼女は人柱として立ち、難工事が成功したという。
(南吉田町町内会)
③1930(昭和5)年11月に刊行された『横浜の伝説とロ碑』中区磯子区篇(栗原清二著)によるもの。
恐らく二度目の開発の際、吉田勘兵衛は海側に波除の堤防を築いたが、雨風あるごとに流されてしまう。
そのうちに、人柱が必要だと噂されるようになる。
吉田勘兵衛のもとで長く働いていた下女おさんは、自ら人柱になると名乗り出た。
吉田勘兵衛は当初反対したが、おさんの熱意に負け、決意したという。
その後工事は順調に進み、新田は完成した。
(南吉田町町内会)
これまでの人柱は全て生き埋めになっただろうと予想されるが、海に身を投じたという話もある。
以下。
④政略結婚と身投げ
おさんは家族と江戸で暮らしていたが、明暦の大火により両親・兄弟と死別し、一人になってしまう。
また不本意な政略結婚に巻き込まれそうになり、逃げて吉田勘兵衛のもとに世話になる。
吉田勘兵衛の新田開発が難航しているのを見て、おさんは人柱になると申し出る。
吉田勘兵衛は反対するが、おさんは自害さえしようとしたので、ついに受け入れる。
おさんは大海に身を投じ、以来開拓は順調にすすんだという。
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